白馬岳から始まる北アルプス縦走の魅力とは?体力ゼロだった私が見つけた山旅の新しい楽しみ方

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白馬岳から始めた理由──地図を広げて決めた「最初の一歩」

「北アルプスを縦走してみたい」と思ったのは、日常に少し疲れを感じていたある春の夜でした。山に特別な思い入れがあったわけではなく、むしろ体力には自信がなく、これまで登山経験もゼロ。そんな私がなぜ、いきなり白馬岳をスタート地点に選んだのかというと、実は地図を眺めていた時に感じた“直感”でした。

北アルプスには有名な山々が数多くありますが、白馬岳はその中でもアクセスが比較的良く、登山口の栂池高原まで電車とバスでスムーズに行けるのが魅力でした。また、白馬大雪渓を経由するルートや、花の百名山にも選ばれる高山植物の豊富さなど、調べれば調べるほど「最初の一歩」にぴったりだと感じる要素が詰まっていました。

さらに、白馬岳は標高2,932mと高い山ながらも、しっかりと整備された登山道があり、初心者でも比較的安全に登れるという情報も背中を押してくれました。何よりも「ここからなら始められるかもしれない」という、自分の中の根拠のない自信のようなものが湧き上がってきたのです。

地図を広げて、北アルプスの全体像を想像しながら「この山から始めて、あの山に繋がっていくんだ」と妄想をふくらませていく時間は、まだ何も始まっていないのに胸が高鳴るひとときでした。白馬岳は、初心者が山の世界に足を踏み入れるための、まさに“開かれた扉”のような存在だったのです。

登山未経験者が北アルプス縦走を目指すまでの心境と準備

登山どころか、ハイキングすら経験のなかった私が、いきなり北アルプス縦走という壮大な計画に挑もうと思ったのは、ある意味「非現実」を求めたからでした。日々の生活に追われ、スマホとパソコンの画面に向かう毎日。どこかで「このままではまずい」という焦燥感のようなものを抱えていたのかもしれません。だからこそ、電波の届かない世界に行き、自然の中で心と体をリセットしたいという願望が芽生えたのです。

とはいえ、登山は甘くありません。思いつきで行動して命を落とすようなことになっては本末転倒。そこでまず取り組んだのが、情報収集と装備の準備でした。登山経験のある友人に話を聞き、図書館で山岳関係の本を読み、YouTubeで実際の登山映像を見漁る日々。何をどれだけ準備すれば安全かを徹底的に調べました。

装備も一から揃える必要がありました。靴、ザック、レインウェア、ヘッドランプなど、どれも値が張るものばかりでしたが、「安全のための投資」と割り切って少しずつ買い揃えました。特に靴は最も重要なアイテムで、何度も試着を重ねてフィットする一足を選びました。

また、体力づくりも重要でした。いきなり山に行ってもすぐにバテてしまうのは目に見えていたので、まずは近所の公園でのウォーキングから始め、徐々に坂道を含むコースへ。そして週末には低山ハイクに挑戦し、装備の重さにも慣れていきました。

心の準備と実践の積み重ねが、私に「やってみよう」という自信を少しずつ与えてくれたのです。

いきなり標高2,000m超え!白馬岳登山の初日で感じた壁と風景

いよいよ出発の日。栂池高原からロープウェイとリフトを乗り継ぎ、標高約1,900mの栂池自然園へと到着しました。ここからが本格的な登山のスタートです。登山道の入り口に立った瞬間、これまでの準備がすべて試されるという緊張と、不安、そして興奮が入り混じったような感情に包まれました。

最初の数時間は比較的緩やかな登りが続き、体力に不安があった私でも何とか歩けました。しかし、標高2,000mを超えたあたりから空気が薄くなり始め、呼吸が浅くなっていくのがはっきりとわかりました。荷物の重さも徐々に肩に食い込んできて、歩幅が自然と小さくなっていきます。気温も下がり、汗が冷えて寒さを感じるようになり、体力的にも精神的にも「これが登山か」と実感する時間帯でした。

しかし、そんな中でもふと顔を上げると、目の前に広がる景色がすべてを打ち消してくれるようでした。見渡す限りの大自然。眼下には緑の絨毯が広がり、はるか遠くには雲海がたなびいていました。振り返ると、自分が歩いてきた道がまるで絵画のように美しく、登ってきた高さを実感させてくれました。

何より感動したのは、高山植物の美しさでした。白馬岳は「花の百名山」としても知られており、可憐なコマクサやチングルマが登山道の脇にひっそりと咲いています。その姿に癒されながら、なんとか一歩ずつ進んでいきました。

初日は登りだけでなく、「山で過ごす」という感覚に慣れることも大きな課題でした。気温の変化、水分補給のタイミング、ザックの重さとの付き合い方。机上ではわからなかった“生きた経験”が、ひとつひとつ体に刻まれていった日でもありました。

山小屋泊のリアル──装備、食事、トイレ事情まで全部語る

白馬岳山頂近くの山小屋に到着したのは、午後の遅い時間でした。疲れきった体を引きずるように受付を済ませ、ザックを置いた瞬間、全身が重力から解放されたような気持ちになりました。山小屋泊は今回が初めて。どんな環境なのか、不安と期待が入り混じっていましたが、実際には「快適とは言えないが、想像よりはずっと良かった」というのが正直な感想です。

まず驚いたのが、宿泊客の多さです。夏山シーズンだったこともあり、多くの登山者が集まっていて、寝床は一人ひとつ分のスペースがギリギリ確保されている程度。プライベート空間はほとんどなく、ザックも最小限にまとめておく必要がありました。

食事は質素ながら温かく、心に染み渡る味でした。メニューはカレーライスや煮物、味噌汁など、登山者の胃袋を優しく満たしてくれる家庭的な料理です。何より、標高2,800m近い場所でこんな食事がとれるというだけでありがたく、感謝の気持ちが自然と湧いてきます。

トイレについても覚悟していましたが、最近の山小屋はエコトイレや水洗式のものも多く、意外と清潔に保たれている印象でした。ただし、使用できる時間帯が限られていたり、水が貴重だったりするため、普段の生活とは全く違うリズムでの行動が求められます。水の使い方ひとつとっても「もったいない」と思えるようになるのは、山の不思議な力かもしれません。

夜は早めに就寝しますが、周囲の物音や寝返りの振動などもあって熟睡は難しい環境です。それでも、満天の星空を眺めながらの眠りは、何ものにも代えがたい体験でした。

雲海と朝日と静寂──五感で味わう「山の朝」の美しさ

山小屋で迎える朝は、都市では決して体験できない“別世界”のような静けさと美しさに包まれていました。まだ薄暗いうちに目を覚ますと、登山者たちは皆、無言のまま身支度を始めます。ヘッドランプの光がかすかに揺れ、ザックのベルトを締める音だけが響くその静寂のなか、山の空気は冷たくも清らかで、胸いっぱいに吸い込むだけで頭が冴えていくのを感じました。

外に出ると、そこには言葉を失うような光景が広がっていました。目の前には真っ白な雲海が広がり、まるで空の上に立っているかのような感覚。はるか遠くの稜線から、ゆっくりと太陽が顔を出し、その光が雲を染め、空の色を刻一刻と変えていきます。オレンジから黄金、そして青へと移り変わるその光のグラデーションに、時間の感覚を忘れるほど見入ってしまいました。

風の音、鳥のさえずり、足元を踏みしめる砂利の感触。そして冷たい空気が頬をなでる感覚。山の朝は五感すべてを使って感じるものなのだと、初めて気づかされました。日常の中では決して味わえない、すべてが研ぎ澄まされたような感覚がそこにはありました。

朝食は山小屋で簡単なものをとりましたが、それさえも格別に美味しく感じられます。前日に味わった疲労が、まるでリセットされたかのような軽やかさを体に感じながら、再び歩き出す準備を整えていきました。

この時間が、今回の縦走で一番記憶に残っているといっても過言ではありません。山を歩く理由は人それぞれですが、私はこの朝の風景を味わうために、また山に戻ってきたいと思うようになったのです。

北アルプスの縦走ルートで出会った人たちと、そこから得た気づき

縦走の魅力のひとつは、出会いです。山の中では不思議と人と人との距離が近くなります。同じ方向を向いて歩いているだけで自然と会話が始まり、お互いの装備やルート、経験を話し合い、励まし合う空気が生まれます。見知らぬ人とのふとした会話が、心に残る大切な記憶になっていくのです。

私が出会ったある中年のご夫婦は、定年後に夫婦で縦走を楽しんでいるとのことで、登山の楽しさだけでなく、歳を重ねた後の人生の過ごし方にまで視野が広がるようなお話をしてくれました。「山は焦らず歩けばいい。人生も同じよ」と微笑んだ言葉が、なぜか深く心に残りました。

また、ソロで歩いていた若い女性とも小屋で話す機会がありました。彼女は都会の忙しさに疲れて仕事を辞め、しばらく山にこもっているのだそうです。そんな生き方があるのかと驚くと同時に、「今だけは、自分のことだけを考えていい時間」と語る姿がとても自由で、羨ましくもありました。

縦走中は、互いの名前を知らなくても、すれ違えば「こんにちは」と挨拶を交わすのが当たり前。その小さなコミュニケーションが、こんなにも心を温かくしてくれるとは思いませんでした。日常生活の中で私たちがいかに人との関わりを表面的に済ませてしまっているかを、山での出会いが教えてくれた気がします。

山という特別な環境が、人と人とを素直にし、心を開かせてくれる。そんな出会いこそが、縦走の中で得られる“宝物”の一つだと、今ははっきり言えます。

体力ゼロでも歩ききれた理由──無理なく続けられた歩き方と休み方

登山を始めた当初、私は「体力ゼロ」を自覚していました。通勤ですら階段を避けていた人間が、いきなり何日も山を歩き続けるなんて無謀だと思う人もいたでしょう。実際、最初の登りではすぐに息が上がり、脚が鉛のように重くなり、何度も「なぜこんなことをしているんだろう」と思いました。

それでも最後まで歩き切れた理由は、ひとつひとつの行動を“無理しない”と決めていたからです。例えば、ペース。登山に慣れた人は一定のリズムでどんどん進みますが、私は常に自分の呼吸と足のリズムを意識しながら、あえて遅いペースで進むようにしました。誰かに追い抜かれても、焦らず、立ち止まって深呼吸する。そんな“自分のペースを守る”ことが、何よりも大事だったのです。

そして、こまめな休憩も重要でした。登山初心者がよくやってしまう失敗は、「疲れてから休む」こと。私はその逆で、「疲れる前に休む」ことを心がけました。10分歩いたら1分止まる。見晴らしの良い場所を見つけたら、水分補給とともに座って景色を楽しむ。これが心にも体にも効くリズムとなり、結果的に1日を通してエネルギーを保つことにつながったのです。

また、装備の軽量化も大きなポイントでした。初心者は「念のため」にと装備を詰め込みがちですが、私は経験者のアドバイスを受けて、何度も荷物を見直し、不要なものは徹底的に削ぎ落としました。結果的にザックの軽さが、歩くこと自体の負担を大きく減らしてくれたのです。

体力がない人にこそ、無理をしない“山との付き合い方”があります。自分の身体と対話しながら、一歩ずつ進む。その積み重ねが、確実にゴールへとつながっていくのだと、私は身をもって学びました。

あえて便利を手放す旅──スマホがつながらないからこそ見えたもの

都市に暮らしていると、スマホは“なくてはならない”存在です。連絡、地図、天気、SNS、音楽……。一日中手放すことのないデバイスですが、山に入った途端、電波は届かず、スマホはただの重い塊と化します。最初のうちは不安がありました。「もし道に迷ったら?」「緊急連絡が必要になったら?」と、いろいろな不安が頭をよぎりました。

しかし、それが“かえって良かった”と思えるようになったのは、登山二日目の午後でした。スマホが使えない状況に慣れてきた頃、ふとした瞬間に、今までにない「静けさ」を感じたのです。それは周囲の音だけでなく、自分の思考が静まっていくような感覚でした。情報が絶えず流れ込んでくる日常から解放され、今この瞬間だけに集中できる時間。その特別な感覚は、スマホがないからこそ生まれたものでした。

地図も紙で持ち歩き、天気は山小屋の掲示板で確認し、現在地は周囲の景色や標識で判断する。最初は不便に思えたこれらの行動が、やがて旅そのものの一部として、かけがえのないものになっていきました。

また、スマホがつながらないことで、人とのコミュニケーションも変わります。山小屋では見知らぬ人と自然に会話が生まれ、情報交換や雑談に花が咲きます。もしスマホが使えていたら、お互いに画面に夢中になっていたかもしれません。

便利さを手放したことで見えてきたのは、「人とのつながり」「自然との対話」「自分自身との向き合い」でした。それは、今後どんな場所を旅するにしても、必ず思い出す“山で得た価値観”になると思います。

下山後に気づいた、日常生活で変わった3つのこと

数日間にわたる北アルプス縦走を終え、麓の街に戻ってきたとき、まず最初に感じたのは「世界が広く感じる」という不思議な感覚でした。目の前にはコンビニがあり、自動販売機が並び、人々はスマートフォンを見ながら歩いています。たった数日間しか離れていなかったのに、まるで違う世界に戻ってきたような気持ちになったのです。

まず変わったことのひとつ目は、「小さなことに感謝できるようになったこと」です。たとえば、蛇口をひねれば水が出るという当たり前が、山の中では当たり前ではありませんでした。水は貴重で、洗顔一つにも気を使っていた自分が、今はこうして好きなだけ手を洗える。そのことに、思わず手を合わせたくなるほどありがたみを感じたのです。

二つ目は、「自分の体と向き合うようになったこと」です。山で一歩一歩を意識しながら歩くなかで、体の声に耳を傾ける習慣ができました。疲れているときには休み、水分が足りなければ補給し、無理をしない。そうした感覚は、日常の中でも続いています。例えば仕事中でも、以前よりも姿勢や呼吸、疲れへの感度が高まり、無理なくパフォーマンスを維持できるようになったと実感しています。

そして三つ目は、「本当に大切なものを考えるようになったこと」です。山では余計な情報が入ってこないぶん、自分の心の声がよく聞こえてきました。縦走中に何度も「なぜ自分はこれをしているのか」「これから何を大事にして生きたいのか」と自問する時間がありました。その結果、日常に戻ってからも、物事の選び方や人との関わり方において、より本質的なものを意識するようになったのです。

北アルプスを歩いた日々は、単なる登山ではありませんでした。それは、都市で生きる自分にとっての“感覚のリセット”であり、“価値観の再起動”だったのだと思います。山で変わった自分は、もう以前の自分とは違う。そんな確かな手応えを、下山してからの日々の中でもずっと感じ続けています。

「また行きたい」と思わせる山旅の魔力とは?

北アルプス縦走から帰ってきてしばらく経ったある日、不意にスマホの写真フォルダを開いた私は、何枚も撮った山の風景を見返していました。白馬岳の山頂から見たパノラマ、雲海に包まれた稜線、小屋の前で飲んだ温かいスープ。そのどれもが、ただの記録ではなく、強烈な“体験の記憶”として鮮明によみがえってくるのです。

なぜまた行きたくなるのか。それは単に美しい景色に出会えるからではありません。山には“生きている感覚”を呼び起こす何かがあるのです。体を動かし、汗をかき、自分の力だけで前へ進む。その先にある達成感や出会い、そして静けさ。それらすべてが、現代社会では感じにくくなってしまった「人間らしさ」を取り戻させてくれるからだと思います。

山旅には不便さや苦しさもあります。重い荷物、天候の変化、疲れ、孤独。でも、だからこそ心の底から「自分が生きている」と実感できるのです。そして一度その感覚を知ってしまうと、またあの世界に戻りたくなる。「もっと歩きたい」「あの景色をもう一度見たい」「別の山にも行ってみたい」と自然に思うようになるのです。

私にとって、北アルプスは“非日常”の象徴であり、“本当の自分”に出会える場所でもあります。だからこそ、下山した直後から、次の山行の計画を立てている自分がいました。山旅の魔力とは、こうして人を内側から変えてしまう、静かだけど確かな力なのだと今では感じています。

まとめ

白馬岳から始まった北アルプス縦走の旅。それは単なる登山ではなく、自分自身を見つめ直すための大切な時間でした。未経験からの挑戦、不安と達成感、出会いと別れ、そして何よりも「自然の中で生きる」という感覚。ひとつひとつの出来事が、自分の価値観や生き方に小さくて大きな変化を与えてくれました。

装備や体力、情報収集も大事ですが、最も大切なのは「一歩を踏み出す勇気」だったのだと思います。体力ゼロでも、自分のペースを守れば、誰でも山を歩ける。そしてその先には、言葉では表せないような風景と、自分自身との深い対話が待っています。

今もふと、あの稜線の向こうに見えた朝日を思い出すと、胸がじんわりと温かくなります。山はきっとこれからも、私の人生にとってかけがえのない場所であり続けるでしょう。

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